チーム訪問

2017/02/11
國學院大學久我山高等学校
東京都

國學院大學久我山 【Vol.1】 酒井良幸監督 コーチングフィロソフィー

東京都男子の強豪校、國學院大學久我山高等学校。
今年は、大型選手を擁してさらなる飛躍が期待されています。
第一弾は、酒井良幸監督のバスケ経歴とコーチングフィロソフィーをうかがいました。

國學院大學久我山ってどんな学校?

國學院大學久我山高校は、東京都杉並区にある私立の中高一貫校です。社会に出たとき、周囲ときちんとコミュニケーションを取ることができるよう、「挨拶」「時間の厳守」といった社会人としての基本を大切にしている学校です。また、男女別学というスタイルで、お互いが男女の違いを認識し、男女の特性を、さらには一人一人の特性をしっかりと見据えながらの教育・指導を大切にしています。その一方で、体育祭と久我山祭など男女がひとつの目標に向かって、協力し合う行事もたくさんあります。

國學院大學久我山(以下・國學院久我山)の男子バスケットボール部は、強豪チームがそろう東京都男子の中でも常に上位に位置する実力校です。横断幕の「堅守考攻」を合言葉に、守備からリズムを作り、インサイドを起点に攻撃を作るチーム。第25回(1994年)全国高等学校選抜優勝大会(現ウインターカップ)では大阪・大商学園との激戦を演じ、惜しくも準優勝。OBにはその試合で中心となったセンター石坂秀一さん(松下電器、日本代表で活躍)がおり、現役選手では、今年1月の天皇杯を制し、日本代表メンバーとして活躍する小野龍猛選手(Bリーグ:千葉ジェッツ)がいます。

■國學院久我山高等学校 HP
http://www.kugayama-h.ed.jp/

酒井 良幸 監督

My History-01

スラムダンクやマイケル・ジョーダンに憧れ、中学1年から始めたバスケットボール!

中学1年生からバスケットを始めました。漫画『スラムダンク』やNBAのマイケル・ジョーダンで世の中がバスケブーム一色になり、みんながバスケ部に入るから自分も、そんな単純な流れでした。バスケ部に入って、どんどんバスケットの魅力に惹かれ、その時はプロになりたいほどの熱中ぶりでした。

でも両親から「勉強もやらないとだめだぞ」と言われ、都内で勉強もバスケも両方できる学校を探し、國學院大學久我山高校に惹かれました。そのときから「絶対、久我山に入りたい」と思っていました。すごく思いが強かったので、受かってもいないのに、中学2年から久我山の練習に通い詰めていました。まだ入れる保証もないのにです(笑)。

中学は公立の弱い学校でした。無名選手で、東京都選抜に選ばれたこともないぐらい。スポーツ推薦で久我山に入る実力は自分にはないとわかっていたので、とにかく勉強をがんばりました。おかげで、無事合格できました。

My History-02
ピアノと習字で培った指先の感覚を生かし、
外角シュートには自信があった!

高校時代の身長は179㎝で、3Pシューターでした。足も特に速いわけではなかったし、バネもありません。でも、シュートだけは当時から自信がありました。小学校6年生まで習い事でピアノをやっていました。習字も習っていたので、指先の感覚は、他の人よりはあったんじゃないかなと思います。

高校1年生の秋、たまたま同じポジションの先輩や同級生が次々ケガをし、僕が試合に出ることに。その試合ではすごくシュートが好調でした。それから(スポーツ推薦ではないのに)スタメンに定着できたんです。

ただ、上級生になるにつれて、僕はベンチスタートとなり、出場時間も減っていきました。理由は「新しく入ってきた1年生たちがすごく能力が高かったこと」と「強いセンターがいなくなったこと」です。僕が1年生のとき、久我山にはインサイドに良いセンターがいました。その先輩がディフェンスを引き付けてくれていたので、自分は逆サイドのコーナーで待っているだけで良かった。周りに生かされていただけでした。ディフェンスを振り切るスピードや自分で打開する力がなかったので、先生にも「3Pシュートが入るのはわかったから、ドライブなど2点を取れる選手になれ!」とずっと怒られていました。

でも3Pを決めることだけで精いっぱいでした。その先を考える余裕はなかったですね。すごく悩みましたよ。負けず嫌いだったので、試合に出られなくなる自分が情けなくて許せなかった。でもなんとかして試合に出たい。バスケットに人生をかけていたので、必死に考えた結果、自分が生きるにはアウトサイドシュートしかないと、ずっと練習していました。

高校3年生のインターハイ出場がかかった世田谷学園戦。4Q残り1分を切った場面で相手に6点リードされていました。そのとき、「酒井、いけ!」と先生に言われ、コートに出て行きました。出てすぐに3Pを決めて3点差。時間を止めようとファウルをしにいったら、なんとアンスポーツマンライク・ファウルを取られてしまいました。でも相手がフリースローを2本落としてくれたんです。残り7秒、3点ビハインドの場面で世田谷学園ボール。劣勢の中、そこでチームメイトがスティールしてくれて、僕が前に走ってボールを受け取り、ワンフェイクから3Pシュートを打ったら、ブザービーターで同点に。延長戦になり、そこで久我山が勝ち、4年ぶりにインターハイ出場ができました。6点ビハインドからの同点打で、その勢いに乗って延長を勝ちきったあの経験は、今でも強く僕の記憶に刻まれています。

My History-03
日体大で日本一を目標に挑戦。
日本一にはなれたけれど……

高校を卒業する日が近づくにつれ、プレイしながらも指導者になりたい気持ちが強くなりました。とにかく高いレベルのバスケットを学びたい。

そこで当時、日本トップの実力を誇る日体大に入りました。1年生のときは2軍でプレイしましたが、それ以降は1軍でトレーナーとして3年間、サポートに回りました。

大学3年生のとき、日体大はインカレ優勝しました。でもそのとき先輩の高松淳史さん(現・市立船橋高校女子監督)が優勝した次の朝、こうつぶやきました。「おれたち日本一になったけど、だから……」 それを聞いて衝撃を受けました。先輩もそのとき就職が決まっていなかったし、優勝したから就職が決まるわけじゃない、お金がもらえるわけじゃない。何も保証されていないんです。日本一になる目標しかなかったので、実現した途端、燃え尽き症候群のようになってしまいました。そこで、「何のために」日本一になりたいのかを考えなくてはだめだと痛感しました。

My Coaching Philosophy-01
久我山はOBや学内の先生方
みんなから応援されるチームを目指します!

大学4年の冬、僕は教員になることしか考えていませんでした。でも未だ就職は決まらず、とりあえず1月から鍼灸の夜間専門学校へ行くことにしました。すると3月に錦城学園高校(東京)の非常勤講師(2年間)になることができ、鍼灸を勉強しつつ、体育の先生をやっていました。

26歳の頃、國學院久我山高校で非常勤講師になることができました。アシスタントコーチを2年間務め、それから正教員・バスケ部監督になって今年で9年目(久我山に来て11年目)です。

久我山のバスケットはディフェンス重視で、攻撃はインサイドが中心です。いろいろ考えましたが、高校の限られた3年間でチームを勝たせるには伝統的なこのスタイルしかないという結論に至りました。そしてとにかくOBに応援されたい、学校の先生方にも愛されるチームを作りたいと。バスケ部はバスケしかやらないよねって言われないように。勉強もバスケもやるし、人としてもしっかりしているな。そう言ってもらえるようなチームを目指しています。みんながプロ選手になるわけじゃない。ですから、バスケットをやめたときに、社会で活躍できる育成も大切にしています。

今の久我山は長身選手も揃い、全国でベスト8を狙えるポテンシャルはあると思います。でも、心がまだ弱い選手が多い。ですからバスケットの技術論より、土台にある人間性を鍛える必要があると感じています。

My Coaching Philosophy-02
プロ選手になっても選手生命は短い!
その後の人生の方が圧倒的に長い!!

Bリーグがスタートし、プロ選手への道も明確になってきました。ただし、もしプロバスケット選手になってもプレイできるのは30歳ちょっとまで。その後の人生が圧倒的に長い訳です。もちろんバスケット関係者としては、日の丸をつける選手を育てるお手伝いをしたい気持ちは強いです。でも、違う社会貢献の仕方もたくさんある。だからバスケットだけになってほしくないなと、今の高校生には伝えたいですね。

取材・文・写真/一柳英男




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