2017/01/28

トップアスリートの高校時代 オリンピアン 【第4回】 永田 睦子 (Vol.2) 高校での転機~オリンピック出場

オリンピックに出た“レジェンド”たちはいったいどんな高校時代を送ってきたのか、昔を振り返っていただきました。今の高校生プレイヤーへのメッセージも。リレー方式でつなぎます。今回は、エース(大山妙子さん)から指名されたミラ(永田睦子さん)がボールミートしました。

永田 睦子

純心女子高校(長崎県)時代は、インサイドのパワープレーで得点を量産。それまで長崎のトップに君臨していた鶴鳴女子高校(現・鶴鳴学園長崎女子高校)の前に立ちはだかり、チームを全国大会出場に導いた。3年のウインターカップでは準優勝。シャンソン化粧品に入団後は、主力としてポストプレイだけでなく、ドライブやミドルショットなどプレイの幅を広げていき、特にパワフルなドライブやリバウンドの強さは他の追随を許さなかった。シャンソン化粧品の黄金時代(リーグ10連覇)を支えた一人で、Wリーグでは3回もMVPに輝いている。日本代表としても活躍し、アトランタ五輪(1996年)、アテネ五輪(2004年)に出場。2006-07年シーズンを最後に、現役を引退。

転機となったカズさん(中村和雄さん)の一言

 2年の時は全国大会ですべて1回戦負け。九州大会では優勝したので、インターハイはシード。よくあるシード校2回戦一発目の試合でいきなり敗退、そんな感じでつまずいたりしていました。2年のウインターカップ予選が終わった10月のある日、体育館にカズさん(中村和雄氏:元共同石油HC)が練習に来られて、純心女の部員の意識が変わった部分がありました。

 「勝とう!」ということはなかなか言えないじゃないですか。地方のチームで、同じ県の子しかいなく、スポーツ推薦がそんなにあるわけでもない、そんな田舎のチームが「全国優勝しよう」なんて思えないし、言えない。それがいきなり「お前ら、全国優勝するぞ」と言われたんです。この言葉はとても強烈で、刺激が強かったですね。最初は「はぁ?」って思いますよね。それが顔に出ていたんでしょうね。「お前ら、できないと思っているだろ。口に出して言ってみろ」と。でもそんなおそれ多いことはなかなか言えない。ぶっちゃけて言えば、優勝は名短みたいなチームがするものだと思っていましたから。勝ちたくないわけではないけど、そこまで大きな目標を立てることをそれまでしてこなかったので、カズさんの言葉はとても衝撃でした。でも、そのことがあってからみんなの意識が変わっていきました。

年のウインターカップで悔しい準優勝

 カズさん(中村和雄氏:元共同石油HC)から高い目標を掲げることを教わったお陰で、3年のウインターカップでは決勝に進出しました。カズさんのあの言葉がなかったら、最後のウインターカップでも途中の回戦で負けていたと思います。練習に対して目的を持って臨んだから変われた。だって、田舎の高校チームにそんなこと言う人いませんから(笑)。

 人間は、自分に嘘はつけない。自分を超えなくてはいけない。でも、気持ちを飛び越えるのが大変だったのかなぁ。「一所懸命頑張ります」とか、みんな自分のことは守ろうとする。そんな中、カズさんからガツンと「全国制覇するぞ!」と言われ、2か月間で自分たちの意識もだんだんと変わっていきました。結果的に、ウインターカップでは優勝することはできませんでしたけど、よくあそこまで行ったなと今となっては思います。

 当時の私は、ターンして裏に入ったパスをシュートするとか、そんな感じでした。ディフェンス・リバウンドを取ったらドリブルしてフロントコートまで行ってそのままシュートとかもたまにしました。去年、言われたんですが、今の外国人留学生みたいな感じ。「とにかく跳べばノーマークになるんだから」と言われていましたし、実際にそうでした。ダンクするほどは跳べないです、リングは触りましたが。助走なしのスタンディングのサージェントジャンプ、垂直跳びは80㎝くらいでした。

 今、振り返ると、ウインターカップは決勝まで負けずによく行ったなぁと思います。明星学園戦(東京)はゾーンに苦しみましたが、準決勝の中村学園女子(福岡)には九州大会で勝っていましたから。決勝は名短附(愛知:現・桜花学園)との対戦。しかもラストの場面まで競っていて、ゴール下のシュートをはずしました。1点差で勝っていて、自分たちの攻撃で私がゴール下をポロリ、最後に3ポイントへのファウルをし、残り0秒で相手にフリースロー2本を入れられて負け。私、けっこう落としてみずから取るタイプ、アシスト殺しリバウンド王でした。でも、さすがに、タイムアップの瞬間は茫然自失状態でした……。

カソリック系の女子高校だったため、部の雰囲気は和気あいあいだったが、3年になるとみんなの意識が大きく変わっていった

日本代表として2つの五輪に出場。
自然と学んだ“自主練”に取り組む姿勢

 日本代表には高校卒業後に選ばれましたが、その時は最終の12人には入れませんでした。12人に入ったのは1996年です。アトランタ五輪、それが初代表戦です。当時、最も印象に残ったのは、オリンピックが想像を超えた規模だったことです。ジョージア・ドーム(当時NBAアトランタホークスのホームコート)も3階席まであり、53,000人が入るドーム型スタジアムでした。当時そんな体育館は日本にありませんでしたから、“おのぼりさん”状態でした(笑)。

全日本ジュニアの時は、開催国の事情で大会そのものがなくなりました。後に他の国際大会にも出場しましたが、あらためて「オリンピックってすごいんだ」と感じました。ABC(女子アジア選手権)やアジア競技大会、世界選手権とも違う。アトランタ五輪は開催地がバスケットボール発祥の地・アメリカだったので、目の肥えた観客の反応が全然違いました。そんな中で先輩たちのシュートがめっちゃ入ったことが記憶に残っています。

 私は一番下っ端だったので、ベンチでの盛り上げ役で、シュートが入るたび飛び跳ねたり急に立ち上がったりしていたので、かなり頭がクラクラしていました(笑)。オーさん(萩原美樹子さん)はすごいし、ジョーさん(一乗アキさん)は入るし。みんなシュートが入って、普段そんなに3Pシュートを打たないジェットさん(加藤貴子さん)までスリーが入っていました。もちろん、ジェットさんは打てば入る人なんですけど。自分自身は、アトランタ五輪では予選の前半には出ていましたが、試合が進むにつれてはあまり出番がなくなり、自分の力のなさに悔しい思いをしました。

 そんな時は選手村にトレーニング施設があったので、帰ってからやっていました。やらなきゃダメだよではなくて。全日本の候補に入り遠征に連れていってもらった時、試合に出ていない先輩たちは必ず自主練で走っていました。だから、自主練はするものだと思っていました。それが普通みたいな感じ。シャンソン化粧品でも、上の先輩たちは夜間や休みの日もシューティングをしていました。周りにはそういう選手しかいません。自分よりうまい人がシューティングをしているのに、ヘタな自分がしないという選択はない。そんなことをしていたら、ずーっと試合には出られません。だからシャンソンに入った時は、自主練に黙々と打ち込む先輩方を見てカルチャーショックを受けました。環境ってすごく人を変えますね。

 アトランタ、アテネ五輪と立場が違ったので、それぞれ思い出深いですね。アテネでは思ったより結果が出せなかったこともあり、辛い思いもありました。世界のバスケットを見ていて、自分たちの力がどこまで行けるんだろうかと思っていたら、予想よりも低かった。中ぐらいまでは行けるけど、トップには手が届かなかったことに衝撃を受けました。


シャンソン化粧品では、インサイドのパワープレーだけでなく、ミドルレンジのシュートやドライブインも得意とし、チームの中心選手として活躍。WリーグMVPに3度、輝いている

取材・文:清水広美 / 写真:永田睦子さん提供

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