2017/01/23

トップアスリートの高校時代 オリンピアン 【第3回】 大山 妙子 (Vol.3) 日本代表入り~2度の五輪出場 

オリンピックに出た“レジェンド”たちはいったいどんな高校時代を送ってきたのか、昔を振り返っていただきました。
それとともに、高校生プレイヤーへの熱いメッセージも。
リレー方式でつないでご紹介します。
サンちゃん(川上香穂里さん)から指名されたエース(大山妙子さん)がボールをキャッチしました。

大山 妙子

代表合宿でディフェンスの基礎を教わる

 全日本チームには、マックさん(濱口典子さん:現・小磯さん)やアケちゃん(岡里明美:後に富士通HC)よりも少し遅れて、実業団2年目で選出されました。

 実は高校の時に足の親指の付け根の疲労骨折をしていて、3年のウインターカップの時も疲労骨折したまま、だましだましプレイしていました。痛みを抱えながらも、自分がいなくなるとチームが勝てなくなるのではという気持ちがあったので、大事な試合は休んではいけないと、痛みに耐えながらやっていました。高校って試合が多いから、なかなか休めませんでした。

 でも、実業団に進んだら選手生命が長いので、ちゃんと骨折を完治させてからと手術に踏み切りました。ウインターカップ後に腰骨の一部を足の付け根に移植する手術を受けたので、共石での練習スタートはみんなより遅れました。その年のシーズンには何とか間に合いましたが、代表に入ったのは実業団2年目でした。

 当時の全日本監督は中川文一さん(現・トヨタ紡織HC)。1996年のアトランタ五輪のアジア枠が3つになり、「日本も出られるかもしれない」と、可能性が高くなりました。代表でも世界を目指そうと、アドバイザリースタッフとしてアメリカからドウェン・ケーシーさん(現・NBAトロントラプターズHC)を招いての代表合宿となりました。それが私の全日本合宿のスタートです。

 その合宿での練習がめちゃくちゃきつく、システム的な練習、特にローテーション・ディフェンスをたっぷりと教わりました。当時の先輩の話によると、カズさん(共同石油:中村和雄HC)の練習も細かくて、次から次へといろんな言葉が飛んでいたと言います。オーさん(萩原美樹子さん:現・日本代表女子アンダーカテゴリHC)から聞いた話がすごく記憶に残っているのですが、「久しぶりにそういうバスケットの練習を思い出した」と。

 私はそうした練習が初めてだったので、パンチを食らったように目まぐるしい何日間かの合宿を過ごしました。あまりにもすごくて、なんだか“知恵熱”まで出てしまいました(笑)。頭を使うし、身体も動かすし、相当パニックになっていたんでしょうね(笑)。

 高校ではディフェンスはそこそこの練習しかやっていなかったので、すごく勉強になりました。後に、私は相手の動きを読むディフェンスのかけひきを得意としてバスケットの奥深さにますます魅了されていくのですが、その私のディフェンスのベースが、この全日本合宿にありました。

 チーム・ディフェンスにはいろんな決まりごとがあります。ディレクション(方向付け)があり、1人で守るのは限界があるので1対1で守る部分と、チームとしてどうローテーションするかという部分です。そうした守りは、高校レベルでは教わっていないことばかり。特に、スクリーンをかけられた時の抜け方、身体の使い方を細かく学べたことはとても役立ちました。ドウェンさんといえば、ディフェンス・コーチ。当時はまだ若くて、情熱的なコーチングだったことを記憶しています。

 あのころはリーグのシーズンが終わって1、2週間休んだら、4月の頭から代表合宿が始まっていました。休む間もなく、一年中バスケットをやっていたような気がします。ありがたいことに若い時から代表に選んでもらい、アジアでは、台湾、中国、韓国、タイとイスラム圏以外はあちこちに行きました。海外遠征が多かった時代だったので、選手としても相当にタフになりましたね。海外での移動も大変でした。そうした過酷な移動に慣れる力を身につけることも中川さんが掲げたテーマ。海外で通用する選手を育てるために、遠征の移動にも慣れ、タフにならなきゃいけない。その意味ではいろいろ経験を積んで、私自身、タフになれたと思います。

オリンピックへの3度の挑戦

 スポーツ選手なら誰もがあこがれる「五輪」という舞台。私が最初にその夢の最高舞台を経験できたのは、アトランタ五輪(1996年)で、2回目のシドニー五輪(2000年)は出場できず、3回目はアテネ五輪(2004年)です。予選を含めて3回、五輪へ挑戦しました。

 アトランタ五輪の予選から3大会のアジア予選(女子アジア選手権)が、いいのか悪いのかわからないけれど、日本で開催されました。開催地は静岡、静岡、仙台です。現在は、各大陸予選で敗れたチームが残りの出場枠を懸けて戦うOQT(FIBAオリンピック世界最終予選)がありますが、そのOQTがない時代でしたから、チャンスがある時代にプレイできたのは大きかったです。アトランタは、モントリオール五輪以来20年ぶりの出場ということで、かなり盛り上がりました。その大会に初めて関わり、出場できたのは大きな経験でした。

 シドニーは、オーさん(萩原美樹子さん)が引退した年です。ミチさん(村上睦子:当時・シャンソン化粧品)、ジェットさん(加藤貴子:当時・シャンソン化粧品)が一番上の世代でした。五輪のアジア出場枠はこのときは1つ。予選の最終戦、韓国との決勝では1ゴール差で負けてしまい、シドニー五輪は出られませんでした。

 仙台で開催された最後のアテネ予選の時は、自分たちがベテランの立場になりました。オリンピックを懸けた勝負の3大会を通して、勝利も敗北も味わいました。日本代表チームの一員として、いろんな経験ができたオリンピックの挑戦だったと思います。

 日本が海外のチームと対戦するのに、サイズがないというのは永遠の課題です。リバウンドの部分で特に。最近はサイズのある選手が増えてきたことは強みだと思うのですが、まぁ小さいのは不利ですね。

1万2,000人の観客を前に奮闘したアテネ五輪のギリシャ戦

 JAPAN(日本代表)の活動の中で印象に残っている試合は?と聞かれても、どれもこれも思い入れがあり一つに絞るのは難しいのですが、強いて言えばアテネ五輪のギリシャ戦です。

 予選リーグの最終戦。勝ったほうが決勝トーナメントに進出という一戦でした。ギリシャは地元開催なので、「日本には勝てるだろう」との思惑で、予選リーグの最後に日本戦のカードを持ってきたのだと思います。

 12,000人入るアリーナは、ほぼギリシャの応援団で埋め尽くされ、“どアウェイ”の中、試合が始まりました。日本ならば、代々木第二体育館で3,300人ぐらい、代々木第一体育館なら5,000人入ったらいいほうです。だから、その倍以上の観客がアリーナを埋め尽くしていました。そんな中での試合は初めてでした。それこそ、地響きするような大歓声なんですよ。当然ですが、ほとんどがブーイング、ギリシャびいきの応援でした。日本人の方々も応援に来てくれていましたが、関係者を含めて100人いるかいないかぐらい。観客の中のほんのひと握りでしかありません。“どアウェイ”の大歓声の中での試合は、今でも鮮明に覚えています。

 試合は負けはしたんですが、私的には一番ワクワクした試合でもありました。雰囲気にのまれた感じはありました。審判にゲームコントロールされ、センターがファウルトラブルに。でも、それも想定内でした。みんなが100%力を発揮できていたら、勝っていた試合でした。地元のホームの圧倒的な雰囲気にのまれ、自分たちが主導権を握った試合ができなかった。最後には競って、残り何秒まで1ゴール差。そこまで競って勝負できた感はあったのですが、結局、2点差での惜敗。勝てた試合でもあったということをひっくるめて、アウェイの試合。勝ちに持っていけなかったのは自分たちの力のなさでした。

取材・文:清水広美 / 写真:大山妙子さん提供

【第3回】 大山 妙子 (Vol.1) バスケとの出会い こちらから。

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【第2回 前編】 川上 香穂里 高校バスケ時代 こちらから。
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