2017/04/10

トップアスリートの高校時代 オリンピアン【第6回】 村上睦子 (Vol.2) 入学早々の“脱走事件”とフリースローの苦い思い出

オリンピックに出た“レジェンド”はいったいどんな高校時代を送ってきたのか、昔を振り返っていただきました。それとともに、高校生プレイヤーへの熱いメッセージも。リレー方式でつないでご紹介します。山田かがりさんが指名したのは、シャンソンの先輩であるミチ。村上睦子(現姓・岩屋)さんがリターンパスをレシーブしました。

村上睦子(現・岩屋睦子)
Chikako MURAKAMI

村上選手は、高校時代に春の高校選抜(1988年3月)で星城高校を初の決勝に導いたキャプテンです。卒業後はシャンソン化粧品に入団。そこでポイントガードに抜擢され、日本リーグ10連覇に欠かせない司令塔に成長しました。当時、チームを指導していた中川文一監督からも全幅の信頼を置かれていた選手でした。

司令塔としてクレバーなパスワークを生かしてゲームメイクを行い、自らもスピードあふれるドライブでゴールに果敢にアタック。リーグ新人王をはじめ、2年目にはMVPを受賞。リーグMVPには計3回も輝き、ベスト5も7回受賞と、数々のタイトルも獲得しました。また日本代表としてもアトランタ五輪をはじめ、世界選手権、アジア大会などに出場を果たしています。現役の終盤にはアメリカのWNBAトライアウトにも挑戦しました。

第一線を引退後は、地元・常滑市(愛知県)では村上選手の名を冠した常滑市民小学生大会が設置されました。また結婚後は、バスケットボールクリニックの講師として全国を飛び回り、バスケットボールの普及に今なお活躍しています。

高校入学後1週間でおきた“脱走事件”

星城高校(愛知県)での生活がスタートしました。しかし、慣れない寮生活に加え、楽しくバスケをしていて中学時代と違い、全国大会をめざす星城での練習では、監督の神谷耕三先生や先輩方が恐くて、1週間ぐらいで逃げ出したくなりました。それは私だけじゃなく、同級生も同じことを思っていて、脱走計画を立てたくらい……。実際には、私ともう1人は脱走できず……。しかし、私たち2人以外の同級生は授業終了後、駅のほうに向かって帰って行きました。

残った2人で「どうしよう」と戸惑いながらモップがけをしていたら、「他の1年生は?」と先輩たちに気づかれてしまいました。「すみません」と半泣きで “脱走計画” を白状したら、先輩方がダッシュで駅に向かいましたが、もうその時には脱走した子たちは電車に乗った後……。でも、結局、2~3日たって、みんなも帰ってきました。帰ってきますよね、そりゃあ、やるしかないですもん(笑)。

辛くても自分で決めた道だし、その環境に慣れるしかない。上下関係の厳しさもあり、今でもあの高校時代には絶対戻りたくない(笑)、それぐらい、もまれました。でも、シャンソン時代もそうですが、こうした苦労があるからこそ、その後の人生で大変なことが起きても、「このくらいだったらまだ大丈夫!」と思える自分がいます。厳しい世界に身を置くことの意味があったと、今は思います。

厳しい生活をどうやって乗り越えてきたかといえば、星城に入る時に「1回でいいから全国大会に出てみたい」という自分の中での目標・夢がありました。当時、星城は、愛知県内で名短付(現・桜花学園)と市邨学園高蔵(現・名古屋経済大学高蔵)と争っていました。全国大会に出場したりできなかったり。それでも、可能性はある。そう信じて星城に入学したからこそ、乗り越えられたと思います。自分をそこで試せるチャンスを星城に入ったことで与えてもらいました。

忘れられない2年のインターハイ予選でのフリースロー

1年目は試合に使ってもらう機会はありませんでしたが、2年のインターハイ予選は忘れもしない試合になりました。

愛知県大会のベスト8入りをかけた試合で、津島女子高校と対戦。津島女子は3Pシュートがバカ当たりし接戦になりました。自分は6、7番手。残り1分を切って1点負けの場面で、私にフリースローのチャンスが巡ってきたのです。当時はワン&ワンのルール(※1投目のフリースローが成功した場合は、2投目も打てるが、1投目に失敗した場合は、そのままゲームが再開)。1点ビハインドですからガチガチに緊張し、結局1本目のシュートを外し、そのまま試合が流れ、試合は惜敗。ベスト16止まりでインターハイには行けませんでした。

高校3年間でそれが一番つらかった試合です。先輩たちはそれで全国に行けなかった訳で、フリースロー1本の失敗で出場がかなわなかったことになります。まず、先輩たちに申し訳ないという気持ちと、たかが1本を決めらない自分のふがいなさに相当落ち込みました。

初めてバスケットをやめようかと思いました。自分で責任を感じてしまって、落ち込みました。その時、友達が「もう1回頑張ろうよ」と言ってくれて、全国大会に行くために星城に入ったのだし、ここでやめてしまうのは簡単かもしれない。でも、ここでやめたら一生後悔する。悔いが絶対残ると、思い直しました。


3年夏には、春の選抜に続いて神戸インターハイにも出場した

それからは、自分のシュートを持たないといけない。フリースローは、大事なもの。最終的にはどんな場面でも同じリズム、同じタイミングで打つことを心がけました。フリースローラインに立った時、いつもと同じ自分を作ろうと。余裕で勝っていれば心も余裕を持って打てるけど、自分がブレないように、常にフリースローに入るところから自分の動きを決めて練習していきました。

フリースローでのルーティーンが最終的に決まってきたのは、シャンソンに入ってからのような気がします。自分の中で、ラインに立ったらリングを見てボールをもらい「トーントントン」と、丹田(たんでん)のところにグッと力を入れてふっと息を吐き、そして打つ。それが自分の決めごと、自分のリズム。それが普通になっていきました。

話は戻って翌年、自分たちの代になり、春の全国高校選抜(3月)が神戸で開催された時に、お陰様で自分たちにとって初めて全国大会の出場が叶いました。

後に、オーストラリアでの世界選手権(1994年)でフリースロー全て決め、成功率100%(22本/22本)という数字を残し、閉会式で特別表彰されました。チームの成績は12位で、最後の決勝をみんなで見てスタンド席でのんびりしていたら、表彰式で「ミチ、ミチ、名前呼ばれているよ」「行ってこい!」ということになり、訳もわからず、フロアに下りてその特別表彰のトロフィーを受け取りました(笑)。

世界選手権で特別表彰を受けたのも、元をただすと、星城高校2年のときの1本のフリースローでの失敗経験があったからこそ。あの「1本のフリースロー」で泣いた経験があり、その悔しさをバネに頑張ったからだと思っています。



※次回のVol.3では、星城高校での全国大会の思い出と全日本ジュニアでの合宿の思い出を語ってもらいます。

取材・文/清水広美
写真提供/村上(岩屋)睦子さん

◆トップアスリートの高校時代 オリンピアン◆バックナンバー◆

【第5回】 山田かがり (Vol.1) バスケットとの出会い~守山中時代
【第5回】 山田かがり (Vol.2) 名短付高(現・桜花学園高) 1年次の苦い思い出
【第5回】 山田かがり (Vol.3) 名短付高(現・桜花学園高) 2年次&3年次の思い出
【第5回】 山田かがり (Vol.4) シャンソン化粧品での転機
【第5回】 山田かがり (Vol.5) 日本代表としてアトランタ五輪に出場
【第5回】 山田かがり (Vol.6) 母校と実業団のコーチを経験
【第5回】 山田かがり 高校生へのメッセージ&プロフィール

【第4回】 永田 睦子 (Vol.1)バスケとの出会い~純心女子高校時代

【第4回】 永田 睦子 (Vol.2) 高校での転機~オリンピック出場
【第4回】 永田 睦子 高校生へのメッセージ&プロフィール

【第3回】 大山 妙子 (Vol.1) バスケとの出会い
第3回】 大山 妙子 (Vol.2) 高校進学~実業団(現WJBL)
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【第2回 前編】 川上 香穂里 高校バスケ時代
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【第1回 前編】 濱口 典子 バスケとの出会い~高校時代 
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